01: 漢字は手で書かなければならない?
(事例教材の〈事例〉の部分の抜粋。内容は今後変わる可能性があります)
わたしは大阪にある学生数の多い私立の総合大学で、非常勤講師として中国語を教えています。おもに第二外国語として中国語を学ぶいろいろな学部の学生のクラスを担当しています。この大学では、第二外国語を必修にして2年間学ばせる学部もあれば、必修は1年間で2年目以降は自由選択にしている学部もありますし、完全に自由選択の学部もあります。選べる第二外国語は、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、韓国語です。
必修にしている学部の学生の動機づけの強さはさまざまで、熱心に授業に参加する学生もいれば、必修なのでいやいや参加している学生もいます。ただ、熱心に授業に参加している学生であっても、コースが終了した後も学習を続ける学生はとても少ないと思われます。
わたしが担当する経済学部1年生のクラスに中野さんという学生がいます。彼は「手書き」を苦手としています。このクラスは、中国語未習者のクラスで、週に2回の授業があります(もう一方の既習者クラスは他の教師が担当しています)。ありふれた構造中心の入門用教科書を使い、知識を問う筆記のテストと、パフォーマンスを何回かさせて、それらを併せて評価しています。受講生は30名ほどです。
中国語は漢字で表記するため、中国語の学習には漢字を手で書く作業が欠かせません。中国とシンガポールで使われている簡略化された字体の漢字(簡体字)にせよ、台湾と香港で使われている伝統的な字体の漢字(繁体字)にせよ、戦後の日本で使用されている新字体とは異なる文字もあるため、漢字を覚える学習は欠かせないと考える教師が一般的です。
中野さんは、「手書き」を苦手としているため、教室にパソコンを持ち込み、それでノートを取っています。この大学は、BYOD (Bring Your Own Device) を推奨しているので、それは珍しいことではありません。しかし、授業中に、紙に手書きする必要がある課題(小テストやワークシートへの記入)を与えると、彼の提出物に書かれた文字が汚く、教師には判読できないこともあります。また、不正確に書かれた文字も多く見られます。さらに、中国語特有の漢字も上手く覚えられないようで、何度教えてもすぐ忘れてしまいます。
わたしが、冗談混じりに、「あなたは漢字を手で書かないから、覚えられないんだよ」と言うと、中野さんは自身が手で書かない事情や手書きを求められることによる苦労に関し、次のような話をしてくれました。
わたしは子どものころから文字を書くのが苦手で、漢字も覚えられないし、自分で書いた文字が読めないこともあるし、手書きで文字を書くのに人の3倍の時間がかかる。だから、パソコンを使っている。
「振り返り」を書かせる授業が多いが、Googleフォームなどに入力させる授業もあれば、紙に手書きさせる授業もある。後者の場合は、書きたいことの3分の1も書けないが、パソコンで入力できればもっとたくさん書けるはずだ。
どうも書いた量で成績を決めている授業もあるらしい。成績が悪いのは、手書きで振り返りを書く授業が多いからだ。
学期末が近づいてきました。中野さんは、ある日の授業の後、わたしのところにやってきて、「この授業の期末試験の答案をパソコンで入力することを希望する」と言いました。彼が言うには、「自分は、科目を問わず、制限時間内に解答しなければならない筆記試験を課す授業の成績が悪い。それは、答えがわかっていても、手書きだと時間がかかって書ききれないからだ」とのことです。中野さんは、「もしそれが不可能なら、筆記試験ではなく、他の評価方法ではだめだろうか」とも提案してきました。しかし、評価の方法はシラバスに記載してあることでもあるし、自分は非常勤講師なので、それを簡単に変えることはできません。
「パソコンで入力する期末試験」を予想だにしていなかったわたしは対応に苦慮し、試験時間を1.5倍にすることを提案しました。大学入試センターの試験などでも、学習障害のある受験生には、最大1.5倍の試験時間の延長を認めていることを知っていたからです。また、試験時間が延びて嫌がる学生はいないので、他の受講生も不審に思わないだろうと思いました。しかし、中野さんは「1.5倍では足りない、マークシート形式と論述形式では比較できないほど時間がかかるから」と言います。「3倍の時間があれば・・・」とも言いましたが、さすがに試験時間を3倍にしたら、他の受講生が不審に思います。
わたしは「特別扱いは難しい。配慮申請でも出ていれば別だが」と言いました。正直なところ、わたしは「中野さんは書字障害に類するような障害があるのではないか」と疑っていました。しかも、彼には自分でもそうした自覚があるようなのです。しかし、この大学では、素人の教員が「あなたは○○障害みたいだから、医者の診察を受けたほうがいい」などと学生に言うことは厳禁です。そこでこのようにほのめかしたわけです。しかし、中野さんは、この弱点を他人に知られるのがとても嫌なようでした。
中野さんはさらに「自分だけを特別扱いにしてほしいわけではないので、期末試験はクラス全員にパソコンでの入力を認めたらどうか」という提案をしてきました。しかし、学生が持参のパソコンを使えば、漢字変換は自在だし、インターネットにアクセスして、機械翻訳のサービスを使うことも可能になるため、出題する内容や形式そのものを新しくしないといけません。
わたしが苦し紛れに「中国語という言語にとって、漢字は切り離せないものだから…」と、ごにょごにょとつぶやくと、中野さんから「先生は、台湾の点字も中国の点字も、漢字を表しているのではなく、発音表記用の文字を一つ一つ点字に置き換えているだけだとおっしゃっていました。では、眼が見えない人の学んでいる中国語は、ほんとうの中国語ではないのですか」と問い返されました。
今、中国語の科目のコーディネイターである専任教員に「希望する学生にはパソコンで入力することを認める試験問題に変更してよいか」と問い合わせているところです。
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